松江歴史館に行く
ホテルで朝食をとったあとはさてどこに行こうと迷いましたが、昨日の夜に親友と食事をしているとき「そういえば松江歴史館行ったことある?武家屋敷とか結構凄いよ」という情報を聞き、そういやまだ行ったことなかったなぁというわけで。
まずはこちら、松江城の真ん前にある「松江歴史館」に行ってまいりました!
身障者用駐車場は歴史館北側から入ってすぐにありますが、一般車用はちょっと離れた川沿いの場所に何台か止めれる駐車場があります。
もちろん無料!!
そこに車を止め、早速歴史館に向かうことに。
ただその前にせっかくなんでお堀も撮っておきますか。
何度見てもこの松が立ち並ぶ、お堀沿いの道は雰囲気がいいです。
お堀にかかる橋も木製の手すりで景観にマッチしていますよね。
ちなみにこの橋普通に車とかも通っていきますからね。
ちょっとびっくり。
私は走らせたことはないですが・・・。
橋桁の間を堀川遊覧船が通る姿は、古き良き松江の風景といった感じ。
まるでこの場だけ何百年も前にタイムスリップしてしまったようです。(まあ、当時はモーターボートでなく手漕ぎのボートだったんでしょうが・・・)
そんな感じでお堀を楽しんだあとは、歴史館に入っていきましょう。
こちらが松江歴史館。
私が大学時代はずっと囲いに覆われていて、何をしているんだろ?と思っていましたが、なんでも旧武家屋敷跡の発掘調査をずっとやっていたそうなんです。
それで調査が終わり、ここに「松江藩家老朝日家長屋」を復元。
また、武家屋敷をイメージした歴史館を建築したというわけです。
中に入るととても立派なお屋敷が姿を見せます。
これが歴史館になります。
結構長い建物ですね。
端から端までどのくらいあるのでしょう?
平屋っていうのがまた贅沢な作りでいいですね。
昔はこの松江城の周りはこのような武家屋敷がぐるりと建てられていたそうです。
そしてこちらが再建された「松江藩家老朝日家長屋」。
このように内部まで見事に再現されています。
流石に昔は電球は無かったんでしょうが、畳と障子で区切られた造りっていいですね。
これぞ日本の伝統工法。
そして歴史館ですが、入ってすぐはドドン!と大きな絵と鎧がお出迎えしてくれます。
玄関で靴を脱いで上がるのですが、畳張りの館内も雰囲気があっていい感じ。
そしてすっごく長いよ!
ちなみに入って右手、つまり上の写真で言うと一番奥が受付となります。
反対側、私が今撮影している方向には資料室があります。
そして展示室の前にはレゴで作られた松江城が!
レゴのプロの作品らしいのですが、このクオリティ・・・パない!
石垣を今感じで再現するとか、こんなの全然想像(創造)できませんね。
瓦も見事なカーブだし、ほんとコレ専用パーツじゃないよね?
多分中も階段とかちゃんと再現されてるんだろなぁ。
そして展示室に入ったらまずビデオで、松江城の建設に纏わるエピソードが見れます。
そもそもこの松江藩、誰が治めてたか皆さんはご存知ですか?
ちょっとこの辺で歴史の勉強をしていきましょう。
戦国時代 山陰地方の流れ
戦国時代って織田信長の影響が強く、どうしても歴史の舞台は関西から東にかけてがメインになると思います。
あまりそこから西って意識しませんよね。
もともとこの地域は尼子氏が出雲守護代を務めていました。
最盛期には中国八カ国を領域に起き、120万石の強大な領土を支配した大名です。
それが戦国時代の最盛期、織田軍がイケイケドンドンで領地を増やしていたころ、毛利に滅ぼされるんですね。
この頃から中国地方一体は毛利氏の領地になります。
その後、豊臣秀吉が天下統一、そして大阪冬の陣、夏の陣を経て徳川家康が豊臣家を滅ぼし、徳川幕府が誕生し江戸時代へとなります。
そして話は松江に戻りましょう。
出雲松江藩 初代藩主 堀尾 忠氏(ほりお ただうじ)
時は天正6年(1578年)、当時は織田信長の家臣で後に豊臣家三中老となる堀尾吉晴の次男(長男という説も)として「堀尾忠氏(ほりお ただうじ)」が誕生します。
堀尾忠氏 1578-1604年
そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで武功をたてたことより、徳川家康から出雲松江藩24万国を貰い受けたわけです。
出雲に入国した際は月山富田城を居城としましたが、この城は山に囲まれており、地理的に偏った場所にあったため、この地を治めるにあたって改めて城を築城することにしました。
その際、堀尾忠氏は亀田山(現松江城)、父の吉晴は荒隈山を城の候補地として上げましたが、最後まで二人の意見は一致しないままだったと言います。
最終的に堀尾忠氏の意見である亀田山に城を造ることとなり、工事が着手されましたが、忠氏は城の完成前に亡くなります。
享年27才でした。
その後、忠氏の息子である忠晴が跡を継ぎましたが、まだ幼かったため、実際の藩主としては忠氏の父、忠晴の祖父である吉晴が統治に当たりました。
そして松江城は1611年に落成、そして年の6月に吉晴もこの世をさります。
その後、忠晴が松江藩を統治していましたが、嗣子はおらず、堀尾氏は3代で改易となりました。
その後、京極忠高が統治しましたが、こちらも嗣子がおらず京極氏も一時廃絶。
最終的には信濃国松本藩より、松平直政が統治し、その後は松平家が明治維新まで松江藩を統治することになります。
一般的に松江藩当主といえば松平家のイメージが強い(らしい)です。
この後にいく松江城でも、堀尾吉晴像の前でカップルが「これだれ?」「松平氏じゃない?松江ってたしか松平だったよね?」という声が聞こえてきました。
今の松江があるのは、親子三代に渡ってこの地を整備し、美しい水の都を作り上げた堀尾氏のおかげなんですね。
皆さんも松江に行った際には、松江城の前に佇む堀尾吉晴像を見てみて下さい。
とまぁ、歴史の勉強はこの辺にして。
そういった、松江の歴史や文化がこの歴史館の展示テーマになっております。
あとジオラマなんかもあります。
こうやって見るとほんと、縦横無尽に水路が張り巡らされており、大変綺麗な町並みですよね。
また、江戸時代と行っても出来たのは江戸時代の前期ですので、きちんと拠点防衛を考えて街づくりも整備されています。
城から見えやすいよう、お堀側に道路をつけたり、城の近くの家は低くしたり、また道から城が見通せないようカギ状に曲げたり様々な工夫が施されています。
今はこのような古い町並みを見ることは出来ませんが、お堀の周りの松並木を歩くと古い松江の情景を感じることは出来ます。
そしてこちら。
松江城の模型。
コレ別に展示用に作ったものじゃありませんよ?
松江城を修理する際に作られた「松江城天守雛形」なんです。
作られたのは1624-1644年、実際のおよそ30分の1の大きさで、城の大工頭である竹内右兵衛が作ったとされています。
竹内右兵衛は松平直政のお抱え大工だったのですが、松平直政が松江藩に入国するとき随従しました。
そのとき、天守に約3尺の傾きがあるのを発見。
修理方法を考えるため、この雛形を作ったと言われています。
修復後は、雛形は二ノ丸の御月見櫓下に納められ、歴代藩主が天守に上がる折には必ず見たそうな。
なんか良いですねぇ。
この城に歴史ありって感じで。
現在では見られない天守の骨組みを見ることができる、大変貴重な模型と言えます。
そんな感じで、歴史館の見学は終了。
松江城のいわれを聞いていたら、なんだか松江城に登ってみたくなりました!
前に登ったのは仕事をやめた際、長野の友人とここを訪れたときだったかな?
久しぶりの松江城天守見学!
行ってみますか!!
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